先の伊勢神宮の回でも申し上げましたが、今回の参拝で一番強く感じたのは「場が人を作り、人が場を創って行く」と言う事。
昨今の日本社会を見ると、個人主義と言いましょうか?無責任主義と言いましょうか?
わがまま言い放題で、何事においても他責な方々が増えて、「あれが悪い、これが悪い」と、自分の問題を棚上げし、他人に文句ばかり言っている人が多過ぎますね。
当然、苦情を言う権利はありますが、権利を有すると言う事は、セットで顛末に責任もあると言う事なのです。
いつからか教育や研修訓練現場では「誉めて育てろ」と、良い行いであれば、いくらでも誉めて差し上げますが、格好能書きばかりで、努力もなく、中身の稀薄な者が、簡単に誉めてもらえるなどと夢々思わない事です。
それは煽てると言うやつでね「◯◯も煽てりゃ木に登る」って話のレベルですよ。
煽てる側に都合の良い話と気づいて下さい。
さて、何かと自由とか個性とか口にする世の中ではありますけど、実はルールや仕組みが、しっかりしている程に、人は守られていて、個性などと言ったところで、無秩序な場所では個性を発揮する場所など無いと考えないといけません。
その為に成長を促す「場を作る」事が必要なのです。
昨今の学校や企業に、その取り組みはあるでしょうか?怪しいところですよね。
試しに他者との関わりのない無人島だろうが、人里離れた山奥だろうが、ひとりで好きに暮らしてみれば良い。
きっと、現代人なら不自由さに気づいて嫌になるでしょう。
そこに適性がある方ならば、私は否定はしませんけどね。
ちょっと話は変わって、神社拝殿や神棚に「神鏡」ってありますね。
あれは、自分が恥じない生き方が出来ているか、鏡に映る自分の姿に問えと言う事なのです。
拝殿では邪な願いを唱える場所ではないのです。
態度の悪い、礼儀の欠片も無い者に、誰が優しく接してくれるでしょうか?
出来不出来の差は問題では無く、それらを守ろうとする思いの人にしか、人々は心を動かされないのです。
神様も、きっとそうでしょう。
偉そうな事を書いておりますが、当方、還暦過ぎても、まだまだ未熟だなと反省する事も多々あります。
神頼みに神社参拝を続けているのではありません。
邪な考えの方々に、本当に気を奪われるのです。
「気が枯れる→穢れ」
穢れを祓いに、又、気を満たす為の神社参りなのです。
気を満たす為のキーワードは…
「ありがとう。」の一言で変わる世の中があると知れば、人生楽しくなりますよ。
毎朝立ち寄るコンビニでも「ありがとう。」って会計を済ませれば、気持ち良い「ありがとうございます。」って返ってきますよ。スタッフさんとは皆、仲良しです。
それだけで、私は朝から気分が良いです。
単純かもしれないけど、自分から感謝で良いではないですか?
態度が気になる店員が居る?それはね、おかしな客が多いから警戒してるんですよ。
態度が気なる店員がいたら試しに、自分からありがとうって言ってみたら?
会計してくれて、ありがとうで良いではないですか?
それでも無言なら、その店に行かなければ済む話ですからね、文句とか悪レビューとか、無駄なエネルギー使わない事が、ハッピーだと気づきましょうね。
そんなところに気を使うのは勿体無いでしょ?