雷がゴロゴロと…週末は天気も悪そうです。⚡
今年は猛暑で局地的な雨☔も多かったし、何気にハザードマップを開いてみました。
2000年の東海豪雨で被災しているので、これらの資料は、とても気になります。
私が現在住むエリアは、昔から台風が来ると、床下浸水が当たり前の様なエリア。🌀
名古屋を離れている時期も長かったのですが、治水防災対策も進んで、昨今、転入された方々では、その被害の経験は無いでしょう。
そもそも、濃尾平野って巨大な干潟であったので、地名や町名を見ると島がつくものや、波や塩、浜とか海って、海を連想させるものが点在しています。🌊
名古屋は、伊勢湾台風にて甚大な被害を受けた訳ですが、ハザードマップを見ると、東側が丘陵台地なのが分かります。
伊勢湾台風で被災した方々の中でも、当時、資金力のあった方々は東部の丘陵へ引越をして行ったとの話を、祖父や父親から伝え聞いています。
現在の名古屋の土地価格や生活水準が、東高西低傾向にあるのは、そんな時代背景もありますね。
私の幼い頃の記憶では、名東区も天白区も守山区も、名古屋市に編入されておらず、郡や村であり、緑区の面積も現在の半分くらいでした。
ひとつ気づいたのが、名古屋の地下鉄ってあまり低い土地は通ってないんですねぇ〜。🚇
西南部は干拓地で軟弱地盤と言う事なのでしょうか?
東京の様に人口も多くなければ、路線も多くないし、自動車文化の街ですから、大深度とか建設費用のかかる工事もしないと言う事でしょう。
話は脱線してしまいましたが、海抜レベルを調整出来るマップにて、色々と試してみると…
どこかで見たような地図が現れました。
尾張の太古図です。
海抜を+3mから7mで調整していると、濃尾平野の太古の特徴に酷似した地図が現れます。
いつしか興味はハザードから歴史です。✨
🏯名古屋城周辺です。見事にお城の北部や西部は海や干潟だったのでしょう。
太古図の浪越あたりです。「浪越」が名古屋の起源と言う資料もあります。
築城に関わる資材は陸路のみならず、水路であったのかもしれませんね。
干拓等もあったでしょうから、勿論、そのままでは無いでしょうが、名古屋城が海辺に建っていた事を想像すると、ワクワクしてしまいます。
次に、名古屋において重要であった熱田の宿周辺を見てみます。
分かりにくいところもありますが、地図に「30」と見えるあたりの下に、島の様な台地が見えます。
現在の笠寺台地です。このエリアには笠寺観音や富部神社他、創建の古い寺社を見ることが出来ます。
祖父の家が笠寺でしたので、笠寺観音ではよく遊びました。
塩付街道の終わりは塩尻。名古屋市南区には元塩、前浜、大磯などの地名があり、この街道を通って海産物が運ばれたのでしょう。🐎
「前浜塩」と呼ばれていたそうです。
あれ?東海道は熱田の宿、七里の渡しまで陸路ではないのか?と思われた方もいるでしょう。🤨
いいえ、この笠寺台地付近では、満潮時は水路であった記録が残されており、「上の道、中の道、下の道」と三つのルートが存在していました。
唯一、上の道が潮の満干期に関係のない陸路であり、こちらのルートを辿ると、歴史的な寺社を見る事が出来ます。
太古図の八事を通るルートです。熱田の宿までは遠回りなルートですが、八事興正寺など、空海にも縁のあるお寺も道すがらにあります。
太古図にある山崎と言う記載が見えますね。
現在、そこには山崎川が流れており、「呼続(よびつぎ)」と言う地名が存在します。
呼続の地名の由来は、「渡し船を呼んで道をつないで行く場所」である事からつけられた地名と聞いており、船着き場だったのですね。🛶
さて、⛩️熱田神宮です。
岬に立つ神社であった事が証明されますね。
右下方向が呼続、下方向のある大瀬子が「七里の渡し」です。🛶
上方向に名古屋城下となり、旗屋と言う町名が見えます。
まさに城下、宮の宿っぽい名ですね。
曽祖父の家があった地で、尾張加藤西家と関係のある様で、譜系は藤原家繋がります。
高座結子神社(熱田神宮摂社)や白鳥古墳他、古墳群の見られところです。
ひとつひとつ見ていくと、とても興味深く、歴史書物とこれらの地図を照らし合わせると、とても面白いです。
⛩️氷上姉子神社(国道23号左の緑のエリア)
🎎日本武尊命と宮簀媛が出会い暮らした場所。歌にも海を連想させるものがあります。
眼の前が海ですね。🌊
⛩️熱田神宮創建に関わる重要な神社です。
⛩️成海神社(鳴海町の文字)
現在の場所とは異なりますが、旧地は海が目の前です。36の文字が見える左下にあります。
日本武尊命と縁の神社です。
一宮市周辺
尾張國一宮は、⛩️真清田神社であり、現在の一宮市にあります。
(一宮市の文字の下くらい)
尾張國一宮って、⛩️熱田神宮ではないの?って言わる方も多いのですが、⛩️真清田神社が一宮です。
また、はだか祭りで有名な⛩️尾張大國霊神社国府宮は、太古図の下津の西南端くらいに位置し、水辺であったのでしょう。下津(おりづ)は現存しており稲沢市下津町になります。(稲沢市の文字の右上くらいの薄緑のところ)
大垣市周辺
大垣市に寄られた方なら「水の都」と言う記述を見たことがあると思います。
なんで、この内陸が?と思われるのは当然でしょうね。周りは田畑ばかりですから。
しかし、太古図や海抜図を見れば、一目瞭然納得の事と思います。
今回はハザードマップから脱線して歴史の話になってしまいましたが、最後まで読んで頂いてありがとうございました。🙇
追記ではあるのですが、地球温暖化とかアトランティス浮上なんて話を聞くと、水位上昇で太古の世界に戻ってしまうのかな?なんて…考えてもみたりして。🤔