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熱田神宮の泣けるラブロマンス

熱田神宮の創祀創建に纏る話を、人物にスポットを当てて、入門編として、長くはなりますが、出来るだけ簡単に説明したいと思います。

諸説ある点につきましてはご容赦下さい。

古事記日本書紀など史書政治的神話に飽きてしまった方は是非どうぞ♪

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さて、重要人物は、ズバリ『宮簀媛』と『日本武尊』です。

 

日本武尊と言えば日本の初代ヒーローみたいな人物ですが、天皇家の人物にあって、お父上から、日本武尊が乱暴な人柄であった事もあって、日ノ本の平定に西へ東へと送り出す訳ですが、疲れ果てた日本武尊は、途中、伊勢の叔母倭姫に愚痴をこぼしに立ち寄ります。

すると泣き言を言わず頑張る様にと、倭姫は天之叢雲剣と布と火打ち石を、日本武尊に授ける事となります。

これが、素戔嗚尊天照大御神→倭姫→日本武尊と剣が渡るストーリーです。

 

今回は熱田神宮に関わる部分をピックアップするので、熊襲征伐や出雲の話などは飛ばして、東征に向かう途中、この熱田の地で東征に同行する副参謀役の建稲種命の妹の宮簀媛と日本武尊が出会うところまで話を進めます。

 

その出会いの地は、熱田神宮南門近くの松姤社と言われています。

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この時、まだ今の様な熱田神宮はありません。

そして、日本武尊は宮簀媛に『東征が終わったら契りを結ぼう』と約束を残し、東征とへ向かいます。

 

途中、現在の焼津の地で、敵の罠による放火で窮地に至る訳ですが、反撃に倭姫より譲り受けた火打ち石で草に火を放ち、天之叢雲剣を振ったところ、風向きが変わり敵を駆逐殲滅する事になります。

その時、剣が勝手に動いたともされ『神剣』と言われる様になり、焼津の地が当時、草薙と呼ばれていた事から、この時より神剣の名は『草薙剣』と名を変える事となりました。

 

その間、宮簀媛は日本武尊の帰りを待ち続け、ひたすら誰とも顔合わさず輿入れの修行をしておりました。

天皇家に嫁ぐって想像すれば分からないでも無い様な…。

その場所が、現在の氷上姉子神社の辺りになります。

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そして、日本武尊の東征は更に進むのですが、上総に向う途中、海が荒れて、その進行を邪魔されるのですが、その海の災を納める為に、同行の妻、弟橘媛が海へと身を投じ、その災いを鎮める事となります。

 

あれ?日本武尊は既婚だったって事ですね。

宮簀媛を側室として迎える予定だったのでしょうか?

それとも弟橘媛と別れて、正室とするつもりだったのでしょうかね?

この時代には、不思議な事ではないかもしれませんね。

 

まぁ、ここも飛ばして行きますね。

 

東征も無事終わり、大和の国へと、そして宮簀媛の待つ尾張の国へと日本武尊中山道経由で、宮簀媛の兄の建稲種命は太平洋岸を経由するのですが、途中、建稲種命は海で亡くなってしまいます。

 

その知らせを日本武尊が聞いたのは、現在の愛知県と岐阜県の県境内津峠あたりと言われ、歌った内容が地名の由来とも言われています。

日本武尊は急いで宮簀媛の元に戻り、兄が亡くなった事を報告しますが、宮簀媛の悲しみを想い、しばし、日本武尊はこの地に留まる事とし、妻として迎え入れます。

 

宮簀媛と日本武尊には子供が無いのですが、宮簀媛は生理の神様と言われたりするのですけど、宮簀媛と日本武尊の二人が、この地で歌う歌には月の文言が色々と出て来ます。

月とか生理とか、現代においても生理中は神社の参拝は避ける様に言われるのは、このあたりの話に関係あるかも知れませんが、違ったらごめんなさい。

生理を穢れとして解釈をする場合もある様ですが、真相は私にはよく分かりません。

 

さぁ、時は過ぎ、日本武尊は伊吹の神の話を聞き、征伐に向う事となるのですが、東征にて使用した草薙剣を何故だか宮簀媛に託します。

亡き建稲種命の事を想い、宮簀媛に預けたのでしょうか?それとも自らの殊勲の証や形見と考えたのでしょうか?もしくは東征の功績から伊吹の神を舐めていたのでしょうか?

 

日本武尊草薙剣を持たず、伊吹征伐に向かうのですが、伊吹の神に敗れてしまい、大和の国へと敗走します。途中『三重にも折れた餅の様だ』と言い残し、現在の亀山辺りで絶命、つまり崩御してしまいます。

この歌が三重の名の由来と言われいます。

 

お供の者達は、亡き骸を亀山の地に埋葬し、嘆き悲しみの歌を歌うのですが、その時、お墓より大きな白鳥が舞い上がります。🦢

 

そして、日本武尊の訃報を伝え聞かされた宮簀媛は、悲しみの中、『何故、私の元へ帰って来ないのか?』と、氷上姉子神社の地で、日本武尊の形見となった剣を守り抜く事を誓い、以後、生涯独身を貫く事となります。姉子って未亡人って意味もあるんですよ。

 

時は流れて、宮簀媛も高齢となり、この草薙剣を末代まで守ってくれる祠が必要との想いから、出会いの地である熱田の地へ熱田社を創祀創建を決めます。

天皇の妻、それも神剣を託され、形見として大事にする事を許されていたのですから、それなりの力は持っていたのでしょうね。

 

その熱田社の創建の場所は白鳥の生息地であり、日本武尊が亀山の地で、白鳥となってこの世を飛び立ち、そして熱田の地へ白鳥となり舞い降り、宮簀媛の元に戻って来たとされているのが、今日の『🦢白鳥伝説』の始まりなのです。

日本各地の日本武尊に関係する地には、それぞれの白鳥伝説がありますが、どれが先とか後とか言う議論は不要だと思います。それぞれの想いですから、どれも本当でしょう。

言い始めれば、古代ユダヤにも白鳥出て来ますから。

 

熱田神宮の北には、白鳥古墳と並ぶ様に断夫山古墳があります。

気づきましたか?『夫を断つ』つまり、日本武尊を思い続け、日本武尊が亡くなっても夫の帰りを待ち続けた、生涯一人身を貫いた宮簀媛のお墓と言われています。

(近年、新しく調査が始まっています。)

 

それらの宮簀媛の想いの全てこそが熱田の地。熱田神宮の姿なのです。

 

どうですか?素敵でしょ♪涙出ちゃいます。😭

 

やはり熱田神宮は、『宮簀媛』であって、宮簀媛が生涯想い続けた『日本武尊』であり、出会いのきっかけである兄『建稲種命』なのです。

 

『熱田さんは、カップルで一緒に鳥居をくぐると、女神様がヤキモチを焼くので気をつけな。』なんて、地場のお祖父ちゃんお祖母ちゃん達が言っていたのを思い出します。

 

そして、天皇家であった日本武尊の剣を祀るお社にしては、当時の熱田社の社格の低い事から、始めにお社が建てられた場所から現在の地に移築され、延喜式神名帳にも尾張三ノ宮として記載されてるお社となる訳です。

尾張社格は、一ノ宮が真清田神社。

二ノ宮が大縣神社で、熱田神宮は三ノ宮となります。

その旧地は、現在の境内南新宮社の位置とされています。南新宮社の主祭神は『素戔嗚尊』ですね。

 

天皇家の剣は、当時の朝廷も神剣、力の証として欲しかった訳で、後に僧侶と思われる人物による盗難事件も起きています。

その人物が逃げ出た門が『清雪門』です。以後、その門は閉鎖され、『開かずの門』と呼ばれています。

清雪門の場所は南新宮社のすぐ近くにあります。

 

宮簀媛の想いを当時の天皇も大切にしたのでしょう。草薙剣最高神天照大御神の御霊代とする事で、社格の位を上げる事とし、現在の熱田神宮の様な姿となったと言う事なのです。

熱田大神草薙剣を御霊代とした天照大御神の荒御魂』とか、超こじつけ的な分かりにくい主祭神になっています。

境内には別に天照大御神の和御魂を祀る『徹社』が御鎮座されています。わざわざ不思議ですよね。

 

更に熱田神宮には、宮簀媛の父母も祀られており、熱田神宮と氷上姉子神社の中間くらいの位置にある、星の宮から移築して来ています。

上知我麻神社、下知我麻神社がそれです。元宮は現存しています。

 

熱田神宮土用殿に草薙剣があったとされますが、私は一之御前神社に祀られていたと考えます。

何故なら境内北西の奥にお社が御鎮座されていて、近年まで禁足地とされていましたが、それは伊吹の方角になるからだと想像しています。

 

どうでしょう?私が記紀に関連する書物や風土記、摂社や末社を実際に訪ね歩き調べて、神話記紀から政情的要素を出来るだけ取り除き感じた熱田神宮の姿です。

 

国造りの話も面白いですが、地場に纏わる話は、権力者が編纂するにも及ばない部分があって、実話に近いところがあるのではないでしょうか?

作り話と思われる方もおられるでしょうけど、そこは先人が崇敬するに値する何かがあったと思います。

 

どうでしょう?熱田神宮好きになりましたか?

好きと思って頂けると、私も嬉しいですし、きっと宮簀媛も喜んでくれると思いますよ。


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