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地震災害と神代の話

地震発生場所の過去100年のデータです。

近代100年のデータですから、旧石器時代縄文時代まで遡ると、一体どの様な感じになるのでしょうか?

きっと、似たような感じとは推測されますが、上図を見ても圧倒的に千島エリア、東北地方東部エリア、関東エリアに多いことが分かります。

先般の日南市の地震琉球海溝に繋がる部分ですね。

 

では、なぜ南海トラフと騒ぐかと言えば、図のオレンジの部分を注視して頂くと、100年間のデータには地震空白域があって、プレート等の歪みのエネルギーの蓄積があるのではないかと疑っているのだろうと素人の私でも思うわけです

実は神代の時代にも白鳳地震といって四国阿波一体に壊滅的な被害を及ぼした南海トラフ関連の地震があったと記録があります。

 

ここまでの話は日本列島の地震の話なのですが、ふと私の頭を過るのは東北大学田中英道名誉教授の日本国史にある日高見国の話。

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大和国以前に、東日本には日高見国と言う大国があったとされる考察です。

青森三内丸山には、縄文時代に既に高度な文明が存在していて、気候の変動と共に人々は、居地を温暖な南へと移動し、茨城県や千葉県東部、現在の鹿島神宮香取神宮を中心に文明を形成していったと言う話に、日本列島における地震も関係があったのではないか?と言うのが私の今回の考察です。

 

はじめの地震のマップを見ても、関東、東北東岸では多くの地震が発生するエリアですから、さらなる日々の生活の安寧を願い、西へと新たな居地を求めた可能性もある訳です。

 

古事記日本書紀ホツマツタヱなどを読んでいると、天孫降臨が2回あったとする考察に、私は合点がいきます。納得です。

 

取りあえず、時代の前後関係はさておいて、1度目の鹿島立ち。

この鹿島や香取のエリアには高天原と言う地名が今も残っています。

1度目の鹿島立ちは饒速日命ニギハヤヒノミコト)が近畿地方へ。

何故、1度目とするかは後に分かりますのでお楽しみに♪

 

私はいきなり関西地方へ上陸したとは考えておらず、四国阿波徳島地方に上陸したのではないかと考えています。それが1度目の天孫降臨

何故ならば、神話に登場する神々の名や関連する神社が、阿波徳島には多く存在しているためです。諏訪も出雲も徳島にあります。

そして、これも諸説ありますが、饒速日命の妻として瀬織津姫の名も出て来ます。

瀬織津姫天照大神正室ですよね。大祓詞にも出てきますよね。

しかし、記紀には一切触れられていません。

饒速日命は別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と呼びます。

京都の祇園祭の山車に祀られる天照像は、ヒゲを蓄えているので、きっと饒速日命なのではないでしょうかね?

大嘗祭に使われる麻の織物「麁服(あらたえ)」は徳島産に限られています。

阿波徳島や饒速日命が、より天皇家に縁のあると言う証なのでしょうか?

しかし、記紀の類には四国のことが、一切触れもしないおかしなことになっています。

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そして、以前にも述べましたが、奈良や関西エリアには〇〇坐(います)神社って多いのも、阿波徳島に元宮があって、その転居先の坐、座って、現在地みたいな意味合いのものも沢山あります。

 

饒速日命は先ず阿波徳島に上陸し、新しい都を造ったものの、白鳳地震において阿波徳島が大きく被災したために、対岸の本州へと海を渡り、関西エリアへと進んだと考えられます。

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そして、2度目の鹿島立ちは、邇邇芸命ニニギノミコト)が海路を使って上陸した地が鹿児島。鹿島の児だから鹿児島。納得ですよねぇ〜。

これが2回目の天孫降臨です。

邇邇芸命日向三代とも言われていますので間違いないでしょう。

そして、日向より東征が始まって行くこととなります。

因みに邇邇芸命は天津彦彦火瓊瓊杵命と書きます。

東征にあたり地方豪族や大陸より流入してきた民族との混血や文明や技術、信仰する宗教などの交流や取得も進んで行ったのでしょう。それが弥生系民族ってやつですね。

 

神武天皇の存在は色々と疑問視されている点があり、神武天皇饒速日命であったとされ説もあるのですが、それならば上の図の邇邇芸命饒速日命が反対で無いとおかしいのです。でなければ日向から始まる神武東征は無かったことになります。

 

これもまた諸説ありありで、邇邇芸命饒速日命は兄弟とも言われていますし、神武は邇邇芸命の子孫など…まぁ、記紀は当時の権力で都合よく編纂されたものですから、正直、真相は不明です。

 

九州より東征を進める邇邇芸命の側を一応、神武としますが、瀬戸内を進み淡路島へ。そして大阪への上陸を試みます。しかし地方豪族の攻勢により、一旦、和歌山を海岸づたいに熊野で再上陸をし、現橿原市へ進行したと言われています。

それが神武東征の侵攻ルートです。

 

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神話に出てくる国造りでは、はじめに生まれた島は、淡路島、そして四国、九州ですよね。

色々なところでキーワードは繋がりますが、四国が抜けてしまうのはどうしてでしょうか?これも後ほどお楽しに♪

 

では、同じ天孫族で鹿島立ちをした饒速日命邇邇芸命の個々の勢力や子孫が、どこで、どの段階で結びつくのかと調べると…

 

神武天皇イワレビコ)は塩土老翁から「東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいる」と聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野紀伊半島南端部)へ迂回して北上することにした。

菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵陣を退治でき、続いて長髄彦を攻める。

すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。長髄彦は、饒速日命天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せる。すると神武も同じものを見せた。長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。饒速日命ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、長髄彦の性格がひねくれたため殺し、神武天皇に帰順して忠誠を誓った。

 

はい!大阪上陸で神武が抵抗にあっていたのは、実は饒速日命側の勢力であったと言うことが分かりますね。天磐船より先に降りた天神とあります。

天孫降臨の順番は饒速日命が先と、ここで分かりましたね。

そして、最終的に饒速日命が己の使者である長髄彦を殺害し、邇邇芸命側の神武に帰順したと言うことになるのです。

 

橿原では神武天皇即位と国家の形成とありますけども、その祖を辿れば、実は日高見国であって、同族の争い事や殺害など、饒速日命側の史実が明らかになるのが都合が悪かったのでしょう。天の道に反すとはそんな意味合いもありそうな気も私はします。

なので饒速日命側の四国の史実も触れなければ、日高見国の史実や富士山、関東、東北の話も出てこないのも分かるような気がします。

 

後に日本武命が国家平定のため、常陸国を目指し東征をしたと言う話も出て来ますが、討伐とかの類ではなく、祖を同じくする国を統一するために使者として向かったとされるのが本来正解ではないでしょうかね?

国を統治したい訳ですから、熊襲征伐や草薙剣のような武勇伝の1つや2つの自慢話として必要でしょう。

勉強すればするほどに、日本の歴史とても面白いですよ。

 

昨今、サイエンスによって、史実が少しずつ明らかになってきています。

今まで学校で教わったことは何だったのかと思いました。

私自身、考えを改めて初めの頃と話が少しずつ変わっていますが、勉強の成果とご理解頂ければ幸いです。

 

そう言えば今だに決着しない邪馬台国卑弥呼

これは魏志倭人伝と言って、三国志の一部あって、伝え聞く話を勝手に創作し作り上げられた海外のフィクション物語です。

つまりは、いくら探しても、そもそも存在しなかったと考えるのが正しいのではないでしょうかね?

夢を打ち砕く様な話で申し訳無いですが、それらには科学的根拠が全くありません。

私は卑弥呼のモデルは、天照ではなく瀬織津姫の様な気がしています。

神勅には瀬織津姫の言葉も出て来ます。

なのに、何故あちこちで隠蔽しなければならなかったのでしょうね。

伊勢神宮荒祭宮には瀬織津姫が祀られていることをご存知の方もいらっしるでしょう。

それだけの意味があります。

古事記日本書紀も残念ながら藤原不比等が都合良く作成したフィクションです。

改めて日本を勉強してみましょう。

 

自分で言うのも何ですが、地震からここまで脱線出来るって凄いなと改めて思いますよwww