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いよいよ敦賀延伸

いよいよ、新幹線の敦賀延伸も半月後になりましたね。

 

ここで鉄道やその地域の話をするのが普通でしょうが、私はちょっと偏屈者なので、歴史的な変革点のひとつである、乙巳の変での蘇我氏と中臣氏の関係が頭を横切ります。

蘇我氏の出自の話は各地にありますけど、皆さん、大体、奈良明日香村の印象が強いですよね。

でも私には、蘇我氏は山陰北陸とか阿波から筑前九州の豪族のイメージがあるんですよ。

 

乙巳の変まで大和政権を牛耳っていたのは蘇我氏であり、その乙巳の変で殺害されたのが蘇我入鹿。殺害したのは中大兄皇子中臣鎌足

 

その中臣鎌足と言えば、今わの際で1日のみ藤原氏を名乗り、後に藤原氏族繁栄の仕掛け人と言われる藤原不比等へと繋がって行く訳です。

 

藤原不比等と言えば、日本書紀の編纂に大きく関わっており、対立関係にあった蘇我氏の記述など、どうして正しく伝えるでしょう?

実は古事記にも藤原不比等が関わっていたと言われる文献も残っていたりもしますが、中臣氏(藤原氏)が蘇我氏を討ち取り、新たに大和政権を暗躍牛耳るにあたって、それまで蘇我氏と対立関係にあって抑え込まれていた藤原氏が歴史編纂を正しく行ったかと言えば、御前で殺害までやったのですからね、都合良く編纂したと考えるのが妥当じゃないですか?

 

以前、日本は阿波の国から始まったとされる資料に接するにあたり、腑に落ちる点が色々ありました。

邪馬台国論争、卑弥呼伝説、未だに決着がつきませんね。

 

私の素人考察では、九州が外交国防拠点であった事は間違いないと思います。

畿内が初まりであった説には疑問符が付きます。

何故ならば阿波説を唱える人々の資料を読み解くに、元は阿波にあって四国地方を襲った巨大地震により都の機能を失った事やら、人口増加に伴い食料問題を含め、阿波から畿内へ遷都したと私は判断しています。

愛媛県今治市大山祇神社がありますが、日本の総鎮守であり、伊勢神宮にも分霊されていますね。

違うところを探していれば、決定打は出て来ませんよね。

水銀朱や青銅器、銅などの出土分布や、以前にもお話した阿波国と、そっくりの名の畿内に数ある坐神社の存在など。

確証ではありませんが、阿波を中心に筑前九州まで広がったエリアが、初期の邪馬台国であったのではないかと思います。

それも言われるような名の邪馬台国ではなく、倭国(やまとこく)。

 

そして、その国が蘇我氏が統治する国であったとしたら?

藤原氏の編纂による日本書紀邪馬台国が一切出て来ないのも納得と思いませんか?

そもそも邪馬台国と言う名は、魏志倭人伝など海外の文献に登場するもので、日本の記紀に記載が無いとしても、何か邪とか卑とか良い意味の言葉とは思えないですよね。

悪意があるようにも感じてしまいます。

 

時に九州・畿内説において発掘調査の結果だと持ち出す人も居ますけど、そりゃ、その地ばかり掘り起こしていれば、「あれが出てきた」、「これが出てきた」って当然なりますよね?

時代が進み人口も増えれば出土物点数も増える。畿内説などはその証と思います。

因みに阿波って、そんなに発掘調査してないんじゃないでしょうか?そう言ったところでも公平な解釈だと私は思っていません。

 

卑弥呼」忘れていましたね。どうでしょうね?私は誰か、それらしき人は居たとは思ってますよ。その人物が国を統治していた本人じゃないかもしれませんけどね。

天照大御神と同一人物論も違うと思います。

天照大御神男神ホツマツタヱには出て来ます。

記紀編纂において、女神としたかったので、正室であった瀬織津姫を隠したのです。

卑弥呼、本当にそんな名前だったのか、蘇我氏の関係者だったのか、天皇家の者なのか、巫女だったのか、霊媒師だったのか、祈祷師だったのか…

「漢委奴国王の金印」の話を例に持ち出される方もおられますが、偽印論争もありますね。

まぁ、金印自体は偽物では無いにしろ、見つかった場所や経緯を考えると、それが卑弥呼が居たとされる邪馬台国を意味するものでは無いと私は考えてます。

新幹線の話から、えらく脱◯していまいましたね。縁起でもないので◯にしておきますね。

話を新幹線に戻しまして、来月の敦賀延伸を機会に、北陸地方や震災にあわれた能登地方に活気が戻ると良いですね。