あっ!丁度良いところに加藤さん♪

神道とモノ作りと趣味の辛口コンシェルジュ

チャレンジしたい一冊「田中英道 著書 高天原は関東にあった」

日本古代史の勉強をしていて、田中英道先生のお名前を拝見する機会がありました。

この本は、定価7,000円の本なので、簡単に入手とはならないのですが、個人的に日本人のルーツとはと、色々な文献に目を通して来ましたが、その中で田中先生の資料を拝見するにあたり、とても興味深い考察だと思っています。

 

今まで日本建国の起点を「邪馬台国」「倭」「倭国」「大和」とした考察の書物ばかりで、一例ですが日本武尊の東征の意味も曖昧であったり、ホツマツタエに出会って、新たな発見もありましましたが、視点がどうしても弥生系渡来人の西日本版のストーリーなんですよね。

 

当然、記紀編纂が拠点を奈良や京都にした考え方なので、東日本の国の話など、正直どうでも良い訳で、富士山が出て来ない理由は、そこにもありそうです。

魏志倭人伝などは、中華思想の海外の産物なので鵜呑みには出来ませんし、東方の国との対立で邪馬台国連合国は魏国に加勢を求める使者を送った訳で、対立関係にある日高見国や狗奴国など書き残すこともしていません。

 

邪馬台国の話は、圧倒的にファンタジー的な捉え方のものが多いですし、その対立していた国のことなど、敢えて触れてもいなければ、深く掘り下げることもなく、文献を探しても存在していないと同様な状態です。

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これは田中先生の考察によるところの、縄文系民族「日高見国 高天原」と、皆さんの大好きな弥生系民族「邪馬台国連合国」の関係図です。

図はざっくりしてますけど、とても面白い。

 

私は神武東征は、先ず渡来系民族が居た北九州辺りから、瀬戸内を進んで阿波の地に進み、白鳳地震以降に橿原に進んだと思います。

出雲の話は阿波の出雲。何故なら明治まで島根出雲大社は出雲ではありません。

出雲風土記の話を出される方も見えますが、古事記日本書紀に、元々、出雲神話は無く、8世紀の平安時代初期に編纂されてものとされると発表もあります。

諏訪も阿波にありますし、諏訪大社にも阿波から分霊されたとあります。

橿原神宮とて明治以降に、創建されたものですしね。

神武天皇の存在自体も不明要素だらけなので、もしかすると神武東征は遷都のことを意味しているかとも思っています。

まぁ、時代的に都と言う規模ではなく、きっと始まりは主権者が居た大集落でしょう。

 

そして、初めて橿原の地に進むにあたっては、中央構造線陸路の紀の川吉野川辺りを進行したのでは無く、海路を一旦、和歌山県白浜、そして三重県熊野へと進んで上陸し、更に陸路を北上したとされる内容に妥当性があるように感じています。

熊野三山って何?って思いませんでしたか?

きっと陸路を進むには土着豪族との争いのリスクがあって、主に海路を使った方が安全だったのではないでしょうかね?

日本の古代民族は海洋民族であった可能性もあって、現代人が思っているよりも海路の方が安全且つ簡単だったかも知れません。

 

そして橿原において大和政権を作った後に、日高見国との国家統一平定の為に、日本武尊常陸国(日高見国)へ向かったとされるならば、記紀にあるストーリーも理解出来ますし、草薙の地で地方豪族に野火を放たれた話にも納得出来るものになると私は感じています。

 

7,000円の書なので簡単には購入出来ませんが、いつかチャレンジしたい一冊ですね。

読書の春

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新しい本が届きました♪

『読み比べ古事記ホツマツタヱ

『日本古代史とユダヤ世界史』

 

日本の古代史を日本のみの視点で見ていると、古事記日本書紀、時には魏志倭人伝の様な都合良く編纂された内容に惑わされてしまうので、世界史的な視点からも、その時代にあったであろう国内外の出来事を注視しながら日本を見て行こうと思います。

やはり歴史はサイエンスでないと駄目です。

 

そして、ホツマツタヱも単独で読むより、古事記との相違点をひとつずつ確認しながら、古事記編纂内容の違和感をクリアにしてみたいと思います。

ホツマツタヱでは、天照大御神男神正室瀬織津姫の事も記述があります。

熱田神宮の事も、日本武尊命の事も、弟橘媛そして宮簀媛の事も、明確に書き表されていて、当方が名古屋の地元で見聞きして来た話との整合性も高いので、今のところ偽書扱いではありますが、私は古事記日本書紀より信頼出来るものと考えています。 

ここに何かしら手心を加えた記述があるかもしれませんけど、そこはタイトル通り古事記と比べながらと言う事になります。

 

読み込む前に後書きから読んでしまって、既に納得してしまっている部分もありますけど、何か新しい発見があれば良いですね。

空海と中央構造線

偶然ではありますが、映画配信のサイトにて「空海」が目に止まりました。

 

真言宗の開祖として、また書の達人として、更には四国のお遍路さんでも有名なところですよね。

以前から気になっていたところでは、愛知県は知多半島南知多町に上陸大師って、海の中に弘法大師像が立っているんですね。

気になると言っても「何で南知多に上陸したの?」くらいのものですし、それ以上の興味も無かったのが正直なところです。

 

写真:ピンタレスト

そして、この南知多町を含む知多半島にも八十八箇巡り(実際は100箇所くらいあります。)があって、空海という人は、本当に真言宗の布教に熱心だったんだなぁ〜くらいの印象だったのですけども、古代史を勉強していると、今では違う見え方がするのです。

 

空海の足跡を追いかけると、中央構造線に関係して動いている様に見えて来ます。


愛知県の場合は、空海南知多町に上陸しましたが、以前、伊勢湾航路で経験をしたことなのですが、快晴の海でも小型漁船など見ていると波間に落ちていくような波の高さと、外洋に近いので、ところどころ色が変わって潮流が速そうな場所があったことを記憶しています。

空海が本来目指したのは渥美半島伊良湖岬だったかもしれず、もしかしたら伊良湖半島は無理で知多半島に着いたのか、漂着したのか、知多半島を初めから目指したのであれば、南知多町の上陸地点が三河湾側と言うのも何となく疑問なところがあります。

 

もし渥美半島を目指していたのならば、明らかに中央構造線を理解していたと思って間違いないですし、知多半島を目標に定めたのならば、中央構造線知多半島内で探し回ったかもしれず、それが弘法知多八十八箇所巡りの元になったのかもしれません。

 

 

赤いラインが中央構造線です。内帯と外帯が接する場所ですね。

主要な神社などが、この線上にご鎮座されています。伊勢神宮諏訪大社鹿島神宮もです。

お寺ですと、それこそ高野山が該当しますし、四国内には空海の出自のこともありますが、真言宗のお寺が中央構造線近くに多い様に思えます。

この中央構造線は所によって水銀朱の採掘出来ると言うこともあり、海外で遺体を腐乱させないよう水銀朱が重用されて取引されていたことは、空海が活躍する平安時代より前から既に分かっていた事です。

 

そうすると、空海って本当に真言宗の布教が目的だったのでしょうか?

書の達人ではなく、地質学を学んでいて鉱山を探していたのではないでしょうか?

水銀朱を見つければ、それは資金元ともなりうる話です。

真言宗の布教をするにも資金が要ったでしょう。

好意的に解釈すれば、中央構造線上にはゼロ磁場とかあったりするので、何かスピリチュアル的な神仏に関する場所を探していたのでしょうか?

 

いやいや、まさかの空海さん。とても面白いです。

またまた妄想癖がムクムクと…

狗奴国(くぬこく)と邪馬台国

皆さん、邪馬台国は知っていても狗奴国と言うと、知らないか、「あぁ、九州南部の…」と言われる方が居られるのですが、それが本当に九州南部の小国だったのでしょうか?

それは魏志倭人伝の一説であって、広く日本国土を見ていたとは考えにくいのです。

 

実は濃尾平野に2世紀後半の古墳遺跡が存在していたとされる研究発表があります。

その頃と言えば、皆さんが大好きな「邪馬台国」そして「卑弥呼」ですね。

小国を統治する鬼道を使う女王のイメージですよね。

しかし、その頃には邪馬台国の勢力は、どこをどう見ても鈴鹿山脈を越えていないはずで、この濃尾平野の古墳遺跡は、どこの国のものだったのでしょうか?

 

そんなことから私がいくつか疑問に思うところのまとめました。

1.天照大御神が本当に卑弥呼であるならば、天孫族であり渡来系弥生人

2.天孫降臨は、そもそも一度では無く何波か移民があって、渡来民族と出会う事を天孫降臨と言っていた可能性もある。

2.日本の縄文時代の民族には国と言う概念が存在していなかったのか?

3.古事記日本書紀に、なぜ四国と富士山が一切出てこないのはどうして?

4.倭国大乱の正体とは?

5.魏志倭人伝にある顔に入れ墨をしていた民族と言うのは、古来石器時代より、この国に居た縄文人ではないか?

6.日本武尊命の足跡と日本人のゲノムの関係は?

7.邪馬台国が対立していた国は?

と言う疑問から色々と考察してみたいと思います。

 

先ず、天孫族と言うのは以前から申し上げているように、九州筑前辺りから四国、瀬戸内、畿内そして北陸に広がった民族と想像します。

その中でも、始まりは阿波説を私は有力視しています。


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縄文系ゲノム分布を見れば、この考察は正解に近いと思います。

では、皆さんの大好き出雲神話の地はどうでしょう?

これを見ると島根には縄文系ゲノムが多いですよね。国譲り神話はどこの話でしたでしょうか思い出してみて下さい。

そして日本武尊の足跡は、縄文系ゲノムの多いエリアに向かっていませんでしょうか?

日本武尊の東征は有名ですけど、出雲もあれば熊襲征伐ってのもありましたよね。

古事記日本書紀には富士山は出て来ません。

あれだけの山が記紀に無いのは、敢えて避けている様な気がしてなりません。

日本武尊が東征にて、草薙の地で襲撃にあっているのに、この地から確認出来るであろう富士山には、その前後においても一切触れていないのは不思議ですし、しかもこの襲撃を企てた者は、一体どこの国のものなんでしょうかね?

 

2024年初めに私の今年の勉強対象は縄文時代と申した様に、日本のルーツを探るには、やはり石器時代縄文時代をしっかり学ばないと、弥生時代の都合よく編纂された記紀内容だけでは、どうにも説明のつかないところに突き当たってしまうのです。

弥生時代のところで日本の成り立ちが始まったとされるのは、所謂、天孫族を始祖とする天皇家の始まりであったり、大和政権のことであって、日本(国土)や民の始まりではありませんね。

きっと、土着系民族との争いや和合があって、弥生時代へと移行して行ったと思われるので、それらを調べてみますと邪馬台国に対立する勢力のことが分かりました。

 

それが狗奴国。

そして縄文系民族の国であると…

それも指導者の名は、卑弥弓呼(ひみここ)。男性の様です。

まぁ、これも魏国(中国)の言い方なので、本当にその様な名前であったのか不明です。

いやぁ〜、面白くなって来ましたね。

 

詳細を細かく書いていると、かなり長文になるので要点のみを記すと、鈴鹿山脈より東方には2世紀頃には既に国が存在していて、それは邪馬台国倭国)と対立関係にあった狗奴国であった。

 

九州南部の狗奴国は、九州筑前から瀬戸内周辺を領地、もしくは属国とする天孫族によって分断されたものと考えてもおかしくない。(熊襲

山陰側も邪馬台国倭国)が統治する様な状態では無く、狗奴国であった可能性もある。(縄文系ゲノム分布と国譲り神話)

卑弥呼が魏国の後ろ盾を必要とする様な記述や金印が存在しているのは、この狗奴国との対立にておいて、何らか魏国に手助けを求めたものかもしれない根拠としてもあり得る。

邪馬台国倭国)からヤマト王権と、この国を平定する背景において、東征した日本武尊の足跡も見てみると、東や山陰、九州に存在していた狗奴国との戦や和睦交渉の事だったのかもしれません。

 

そう考えた時に天皇家の祖先が古代からの土着系縄文人ではなく渡来人となる訳で、それが具合が悪いと土着系縄文人の狗奴国に関わる記述描写ところを全て破棄し、天孫族こそが皇祖神であるとしたかったので、都合の良い神話や記紀が書き起こされたのではないかとも推測されるのです。

 

因みに狗奴国の指導者の卑弥弓呼(ひみここ)は素戔嗚尊ではないかとの説も存在していて、姉弟の様な名前ですよね?

更に面白いことに、伊勢国の入口である三重県桑名市と川を挟んだ反対の愛知県県境西端近く(濃尾平野西端)には、素戔嗚尊が御鎮座される津島神社総本山があり、伊勢の入口には北伊勢神社と言われる多度大社(天津彦根命)に天照の第三皇子が鎮座されているのも面白いです。

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さて、それらの事を踏まえて、色々文献を探すと1冊のそれらしいのを見つけましたよ。


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最近、私のお気に入りの茂木誠さんが対談されていた高橋さんと言う方も、確か関東起源説を提唱されていた様に思います。

しかし狗奴国が天皇家の起源の可能性がないと断言は出来ませんが、私は今のところ考えにくい部分があるので、しっかりと内容を精査理解しないといけないと思っています。

四国や富士山が記紀に描写されないのも、やはり阿波と狗奴国に真相がありそうで臭いがプンプンしています。

本居宣長古事記伝も面白そうです。高くて買えないので図書館かな?

 

さて、これらの話を信じるも信じないも貴方次第ですが、当方、理系人間なのですが、久しぶりに本当の勉強の仕方を思い出した様な気がしています。

教科書をトレースする様なものは、そもそも勉強じゃないですね。それは所謂、学習ってやつですね。

自分なりの推論仮説を持って、いきなり答えに辿り着かなくても、疑問をひとつずつクリアにして行く過程の大切さですよ。

まだまだ、古代史がクリアになるのは先の話でしょうけど、当方の素人推論にお付き合い頂きましてありがとうございます。自画自賛ではありますが、そんなに外れていないと思いますよ。

また、新しい発見がありましたら、推論記事を書いて行こうと思います。

 

上の本の帯にもありますよね。「歴史は文学ではない、科学であるべきである。」

それですよ。

これは観て欲しいな

youtu.be

古事記日本書紀、他の古記に触れると、四国や富士山が出て来ないことに疑問を持つことは、少し勉強した段階で必ず思うことでしょう。

 

やはり、そこにたどり着くんだなと、自分の考察との違いに関心したり、大いに同意出来る部分があって、この動画とても面白いです。

邪馬台国の九州説や畿内説に固執する方に是非見てもらいたい内容です。

続きも合わせて観てもらうと良いと思います。

 

史学者の偏った考察より、広く物事が見えている様に思います。

動画内コメントに「表向きには言えない」って、公に深堀りしてはいけない内容があるんだなと思ったりもしますね。

 

茂木誠さん、ファンになりそうです。

色々と動画配信されていたり、著書を出されているようなので、チェックしてみるつもりです。

予備校講師をされている作家さんだそうですが、一度、講義受けたくなりますね。

天照大御神は女神なのか男神なのか?

「また、おかしな事を言ってるよぉ〜」って思っている方、天照大御神は女神と信じておられるとは思いますが、実は所々に男神とされる記紀が残っているだけでは無く、祇園祭岩戸山には男神として飾られていたり、ホツマツタヱの記述でも男神なのですねぇ〜。歴史ある祇園祭で間違ってますかって話。

そりゃね、私も美しい容姿の女神様ならと想像するだけもワクワクするのですが、太陽神を女性とするところに私は疑問を持っているのです。

 

男神な訳ないだろ!」って反論される方の考察って、先ずは絶対違いないとの思い込みだったり、天照と卑弥呼は同一人物だよとか、邪馬台国が…云々って話だったり、ちょっと勉強された方の場合だと、天照大御神は大日孁貴(オオヒルメノムチ)と言う名で霊女、巫女だと言う根拠に、「孁」の字について「孁は、巫女の意で用いた文字であろう」と言われるのです。

「孁」に似た「靈」の字(「霊」の旧字体)には巫(神に仕え神意を伝える人)の意もあるので、この靈の巫を女に改め、孁とすることによって巫女であると力説されるんですが、日靈とも書くのに、わざわざ孁のみを強調するんです。

多分に漏れず、邪馬台国は九州だ畿内だと力説される方に、その様な傾向が強くあります。そこに阿波徳島の考察なんて一切一言も出て来ない。

 

因みに、この文字は借字とも言われていて、本来の意味とは違う漢文字なのかもしれないのです。

巫(ふ)が、性別の話がではなく、神に仕えるものとの解釈と思いますし、巫が下支えしている文字ですよね?

巫(ふ、かんなぎ)は女性だけではなく、巫覡(ふげき)と書くと男性にもなります。

例えば、全ての御位牌を見たわけではありませんが、戒名下の霊位が靈位である事は見たことがありますが、女性だからと孁では無かった様に思います。

 

そして、造化三神である高皇產靈(タカミムスヒ尊)や神皇產靈(カムミムスヒ尊)、そして明らかに男神とされる火產靈(ホムスヒ)などの神名にも、巫(ふ)の意がある「靈」の字を用いている古記もあるので、巫(ふ)を女性とする根拠とするならば、極論、全て女神と解釈出来る事にもなってしまい、とてもおかしいな事になってしまうのです。

 

天照大御神が巫女であったとする説は、高皇產靈(タカミムスヒ尊)に仕える巫女であったとする説もあるのですが、この漢文字を根拠とするならば、高皇產靈(タカミムスヒ尊)自身もまた神に仕える巫(ふ)、又は巫女ということになってしまいますし、また、火產靈(ホムスヒ)は火の神であり、男神軻遇突智カグツチ)の別名ですが、生まれてすぐ伊奘諾(イザナキ尊)に殺されているので、巫(神に仕え神意を伝える人)と言う意味でも無理がある気がします。

どうしても大日孁貴を女性としたい作為があるように思えてなりません。

 

はたして天照大御神は男か女か?

陰陽論で考えれば伊弉諾尊は陽神(男)、伊弉冉尊は陰神(女)です。

であれば陽である太陽神の天照大御神は男性であると考えるのが自然なことです。

ホツマツタヱには天照大御神と12人の妻、そして正室瀬織津姫の事が書かれています。

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また平安時代の『伊勢奉幣使記』『山槐記』『兵範記』には天照へ捧げる麻の衣装として男性用装束が奉納されたことが記されています。

天照大御神が宿るとするアラタエは徳島産の麻でないと駄目とされてますね。

神社で授与する御札は伊勢神宮以外は大麻(オオアサ)ですよね。

 

では、なぜ天照大御神は女性とされたのか。

古来より男性たる太陽神に仕えるのは女性の役割とされており、神を己の体に降ろし、神の言葉を巫女が代弁していました。

そのことからやがて、太陽神である皇祖神天照大御神と神託を告げる巫女が混同されるようになり、日の巫女を意味していた大日孁貴は天照大御神の異称として使われる事になったのかもしれません。

 

そしてもうひとつ解決しないといけないのが、太陽に仕える女性・日の巫女・大和国の祖と言って連想されるのは邪馬台国倭国)の女王卑弥呼ですね。

卑弥呼はシャーマンとして民衆に神託を行い、男性たる太陽神を崇める日の巫女が、口伝でそれを伝えているうちに、あるいは自分らを神の子孫とすることで権威を高めたのかもしれません。

よって民は、太陽神と日の巫女を同一視し始め、皇祖神は女性神としたのかも知れません。

それらの名は邪馬台国卑弥呼も、魏志倭人伝に出てくる名であり、海外の者が書いた書物であることも忘れてはいけません。

 

更には明治時代の神仏分離にて消し去られてしまった瀬織津姫の事も忘れてはいけません。大祓詞にその名が記されているのにおかしいでしょ?ホツマツタヱには、しっかりと天照大御神正室とあります。

記紀編纂よって、持統天皇藤原不比等による記紀改竄も皇祖神が女性であることの方が都合が良かったので、その様に記紀を作ったとも考えるのが自然です。

 

では、本題の天照大御神の正体は?仮説としておきましょう。

饒速日尊(ニギハヤヒ)。その別名を天照国照彦天火明命

天火明命アメノホアカリ)は尾張一之宮の真清田神社の主祭神としても祀られています。大和国の建国と創建があまり変わらない歴史ある神社です。

そして、熱田神宮の摂社孫若御子神社にも祀られています。

饒速日尊と瀬織津姫って繋がって来ますよねぇ〜。

 

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因みに天照とは、本来、国家の名前の事ではないのでしょうかね?

天照大御神卑弥呼の関係が切れないのであれば、卑弥呼の跡継ぎと言われるのは血縁もない壱与(いよ)です。

あれ?もしかして伊予国?じゃ、阿波は天(アマ)だったのかもしれませんよ。

先般お話した阿波出雲の話。諏訪大社も阿波の元宮から分祀したと明記されています。

そろそろ、史学者も真剣に阿波を調べた方が良いのかも知れませんが、もしかすると天皇家の出自を暴く様なことが許されていないのかもしれません。

なので史学者の中で阿波を避けてお話をする方と天照大御神を無理やりでも女神としたい方の話は、信憑性に欠けるし、新しい発見は生まれない様な気がしてなりません。

それこそが、邪馬台国論争が300年決着がつかない理由とは思いませんか?

 

私の勉強結果は、始まりが阿波で無くても、男神でも女神でも良いのです。神社の千木がおかしくても、日本のルーツ。真実に少しでも日本人として近づけたらそれで良いのです。日本を正しく理解するとでも言いましょうかね。

そんな中で我がホームグランドの熱田神宮でも真相にも近づけました。

 

阿波の出雲や諏訪、歴史ある諏訪大社でも元宮は徳島です。

出雲大社は明治時代まで出雲大社ではありませんね。

畿内の坐神社はどこから来たの?

壱与って?伊予之二名島愛媛県今治市にある総鎮守の大山祇神社の存在は?

瀬戸内の出口には、関門海峡、豊後水道、明石海峡鳴門海峡があって、魏志倭人伝にもあるように危険な関門海峡は避けて迂回して陸路に進んだのですよね。

潮流の速い場所は自然の防壁として最適ですよね。そして瀬戸内海を東進して進路正面には淡路島です。

伊邪那岐伊邪那美の国生みは、淡路島そして四国と始まりました。

魏志倭人伝邪馬台国倭国)の位置は、直線距離でピッタリ阿波徳島です。この時代の魏国には測量技術は確立していましたよ。

 

どうでしょう?仮説推論だとしても何か楽しくないですか?

吉野川と言えば

吉野川と聞いて、どちらの吉野川をイメージしますか?

 

奈良県内の吉野川と四国の吉野川

もしかすると「奈良にもあったの?」「えっ、四国にもあるの?」って、生活している場所によって認識が違うかも知れませんね。

 

下の写真の様に、中央構造線の沿って本州側と四国側共に吉野川が存在しています。

 

奈良県側の吉野川三重県の大台ケ原を源流に奈良県内を吉野川和歌山県に入って紀の川と名を変えます。

どちらも仕事でしか行った事がないので、吉野山辺りの桜が美しかったのと、紀の川ではパラグライダーが盛んであったくらいしか記憶がありませんが…

 

次に四国側の吉野川。こちらも訪れたのは仕事でしたが、昔は暴れ川として有名だったみたいですが、印象はあまり強く残ってはいないです。


実はこのふたつの吉野川は、双子川とも言われるくらい雰囲気が似ていると言われています。

でも、なぜ本州側は奈良県内だけ吉野川なんでしょう?そんなこと他でもあるよって言われる方もおられると思うのですが…

 

これが神代の話だとしたら面白くないですか?

 

以前から、私は日本の始まりは阿波徳島と言う説に非常に興味関心があって調べているのですが、天孫降臨がこの地であったとした時に、神話に符合する地理、地形や地名、そして連想させる出来事が、この阿波徳島には出て来るのです。

 

この吉野川の近くに出雲と言う地があることをご存知でしょうか?そして出雲大社や出雲神社が多く存在しています。

現在では出雲信仰により分祀分霊したところも多くあるとは思いますが、徳島の出雲大社は島根の出雲大社の支社とされているのです。

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何かおかしくない?

島根の出雲大社は、元々の名は「杵築大社」ですよ。

 

明治時代に「出雲大社」と改名し、改築とかして大きくなったものですよね?

明治時代のお話です。

風土記には「八雲立つ…」って話だけで、出雲の根拠となるものが他には存在していません。

 

おぉ〜!「特急やくも」ってこの八雲?f:id:wisteriaplus622:20240319190118j:image

そうですよ。鉄オタでなくても分かりやすいですよね。岡山に居た時は時折、利用していました。

 

出雲と言えば国譲り前は素戔嗚尊ですよね。その後の国譲りでは大国主命ですね。

素戔嗚尊で出雲と言えば、皆さん想像するのは「八岐の大蛇」の神話じゃないでしょうか?

でもね、出雲風土記には素戔嗚尊は、あまり登場しないのですよ。

大国主命の時も出雲とは言っておらず葦原の中つ国ではなかったでしょうか?

 

もしかしたら、この話の流れから何となく気づいた方、察しが良いですね♪

 

八岐の大蛇の舞台が、実は吉野川と言ったら驚きませんかね?

天孫降臨の地が阿波徳島であって、天照大御神素戔嗚尊が、この地を吉野川を挟んで南北分けて統治していたとしたら?

四国を古事記では伊予之二名島(州)と記しています。

二名島?渡来系民族がこの地に渡るにあたって、アモとかスサって国を経由していたりする民族なので、天照大御神素戔嗚尊も、物部や忌部、品部などと同様に部族名だったり首長だったりする可能性もある訳です。

 

神話では二人は姉弟とされていますけど、違う部族や領地の首長と解釈してもおかしくはないでしょう。

じゃ三貴子の残りの月読命は?

どうでしょうねぇ〜、記録もなく正体不明ですし、一応、弓月国ってのもありますから関係してるのかもしれませんが…

 

さて、吉野川に話を戻すと、この川は暴れ川として有名だったと先にお伝えしました。

素戔嗚尊のスサとは、遠い古代イスラエルの故郷や神話の話だけでもなく、暴風雨をも意味しますし、又、素戔嗚尊が鉄と水の担い手とされたり、自然学者であったとされる文献もあって、もしかすると氾濫を繰り替えす吉野川の水防対策を担っていた人物だったかもしれないのです。

 

そして仮説ではありますけど、吉野川の支流を含む河川の全容が八岐の大蛇の姿だとしたら?

神話で大蛇に生贄になった娘たちは、度々発生する水害によって失われた命のことだったとしたら?

そして一本の尾から天之叢雲剣が出てきたんですよね。

素戔嗚尊は鉄の担い手です。自然科学にも長けていたのでしょう。川の支流の水防対策をしていたら鉄鉱脈とか見つけたのかも知れませんよ。四国も鉱山いっぱいありますもんね。

古代で重用された水銀朱鉱山もありますね。


どうでしょう…それらが八岐の大蛇神話の真実かも知れませんよ。

私はあり得る話と思います。

 

前回も阿波徳島から白鳳地震を機会に畿内へ遷都したお話をしましたが、坐神社同様に新しい都にも神話伝承のために故郷同様、吉野川が必要であって、双子川と言われるくらい似ている四国吉野川のコピーが必要だったと思いませんか?

どの時代の話かは分かりませんけどね。

それも明日香村や橿原の近くを通る川で、県境でわざわざ名前を変える必要はどこにあったのでしょう?

 

仮説と言えば仮説、妄想と言えば妄想。でも、記紀風土記を読んだりすると、まんざら嘘でもないと思いますよ。

いつもの事ですが、信じるか信じないかは貴方次第ですね。